『主を固く信頼せよ』
(ヨシュア記23章6節~8節)
(2026年4月12日 ベテル清水教会 聖日礼拝説教)
私たちの教会が属している日本基督教団では、「信徒の友」という月刊雑誌を発行しており、私たちの教会も定期購読をし、多目的室にも置いています。
毎月、各地の教会の祈りの課題が掲載され、私たちの教会の課題が掲載された時には、祈り会の寄せ書きやお便りが寄せられ、いつも掲示板に掲示しています。
信徒の友は、1964年に創刊され、歴史は長く、多くのクリスチャンに読み慕われ、私も、説教で引用したことがあり、今日も一つ、紹介させていただきます。
3月号の特集は、ホッとする教会をモットーにする私たちの教会にピッタリのテーマ、「神のもとで休みたい」でした。
表紙には、「気づいたら心身ともに疲れ切って動けない。そうなる前にちょっとひと休み」と書かれていました。
記事の見出しには、こう書かれていました。
七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない
主が祝福し、聖別された安息日を、私たちはどう受け止めているだろうか。
日曜日、礼拝を守りながらも、しなければならないあれこれ、
頭を離れることのない心配事でいっぱいになることもある。
なぜ休むのか。樹木は葉を落とし、春を待つ。
そのように、わたしたちにも安息が与えられていることをもう一度。
私は、この教会に来た人たちが、神のもとでホッと安らぎ、主が共におられるという恵みを受け取り、もっともっと祝福されるように、といつも祈っています。
名付けて、ホッともっとチャーチです。
神様は、私たちに安息日を与え、それを守るように教えました。
安息という漢字は、息が安らぐ、と書きます。
創世記の天地創造の物語を読むと、最初の人、アダムは、土の塵から造られ、鼻から命の息を吹き込まれています。
この命の息は、ヘブライ語で「ルアハー」と言い、霊とも訳されます。
聖書によれば、人は皆、神に造られ、命の息、神の霊を吹き込まれた存在です。
人は皆、神のもとに帰ること、立ち帰ることによって、安らぎを得て、この世で息を吹き返し、回復することができるのです。
先週、イースターを迎えましたが、たとえ死んでも生きる、復活がある。
生きていて、主を信じる者には、この世で回復があり、復活が約束されている。
これが私たちに与えられている希望です。
イエス様は、マタイによる福音書の中で、こう語っています。
11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
だれでもです。
弟子たちだけでもなく、ユダヤ人だけでも、クリスチャンだけでもありません。
神様に造られたすべての人に向かって、「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と、神のもとに帰るように、招いておられるのです。
教会は、キリストの体です。
主のもとに招かれた人、運ばれて来た人たちが、神のもとで安らぎを得て、回復し、再び立ち上がる場所なのです。
特集記事の中に、写真家の森本さんの写真とエッセイがありました。
タイトルは、「造られたすべてのものに安息が必要なこと」です。
森本さんは、雪に埋もれ、葉を落とし、枯れ木のような状態だったブナの森が、新しい葉を茂らせ、緑に輝く森の写真と共に、こう語っていました。
冬の冬眠を含めて、樹木や草は、創造主に造られたまま、置かれたそのままの場所で今をまっすぐに生きようとしています。
枯死したように見える冬枯れ姿も、じつは固い冬芽の中では、春が来たら葉や花になって一気に開くための「成熟」がじっくり進められているのです。
この森本さんの視点は、創造主、造り主なる神を信じる信仰者の視点です。
復活の主を信じる信仰者の視点で、樹木や草を眺めておられるのです。
わたしたちも、造り主なる神を信じ、復活の主、救い主なる神を信じ、今も生きておられる主を信じる視点で、この世界を、自分自身を眺める必要があります。
人の目、この世の視点で、この世界を見ると、戦争が勃発し、貧困と飢餓に苦しみ、荒れ果てたように見えます。
人の心も荒廃し、愛が冷え、希望を失いそうになる現実があります。
しかし、たとえ、枯れ果て、荒れ野のように見える状態にあっても、主の御手の中にあって、回復へと向かうプロセスの中にあるのです。
人生の中で苦難があり、厳しい冬の時代、荒れ野を歩む時にも、成熟のプロセスは進んでおり、やがて春が訪れ、花が咲き、実を結ぶ時が来るのです。
森本さんは、「造られたすべてのものに安息が必要だ」と語っています。
思い切って、人の声から離れて、ひとりでゆっくり森や雑木林で一日を過ごすのも、心の休息であり、安息になると言っています。
教会の前には、二本の木が植えられています。
一本は、「ハクモクレン」であり、もう一本は、「ハナミズキ」の木です。
Googleレンズで調べました。
春になり、先に咲いたのは、ハクモクレンの木でした。
咲いたと思ったら、あっという間に散りました。
私は、落ちた花びらを掃除しながら、枯れ木のような状態のハナミズキの木を見ながら、枯らしてしまったのではないか、と思っていました。
枯れてしまったのかな、と思っていました。
先週、復活祭が終わり、枯れたように見えたハナミズキの木のつぼみが膨らみ、花が咲き始め、今朝は綺麗に咲き誇っています。
これと同じことが、私たちの人生にも起こるのです。
「告白」という書物を書いた神学者、聖アウグスチヌスは言いました。
「私たちの心は、神の中に憩うまでは、安息を得られない」と。
「パンセ」を書いた物理学者パスカルは言いました。
「人間の心の中には神の形をした空洞があり、それは神によってしか埋められない」と。
イエス様の招きに応答し、神のもとに来れば、安らぎを得ます。
神のもとに来れば、枯れたように見える身も心も魂も、新たな力を受け、成熟し、復活の朝を迎え、良い花を咲かせ、良い実を結ぶことができる。
今朝は、このことを踏まながら、新年度の御言葉を黙想したいと思います。
もう一度、今日の御言葉をご一緒にお読みしましょう。
ヨシュア記23章8節です。
23:8 今日までしてきたように、ただあなたたちの神、主を固く信頼せよ。
主を固く信頼せよ
これが新年度の標語であり、今日のテーマであります。
もう一度、ヨシュア記23章の6節~8節の御言葉をお読みします。
取り上げました。
23:6 だから、右にも左にもそれることなく、モーセの教えの書に書かれていることをことごとく忠実に守りなさい。
23:7 あなたたちのうちに今なお残っているこれらの国民と交わり、その神々の名を唱えたり、誓ったりしてはならない。それらにひれ伏し拝んではならない。
23:8 今日までしてきたように、ただあなたたちの神、主を固く信頼せよ。
23章は、小見出しにもあるように「ヨシュアの告別の言葉」です。
ヨシュアは、イスラエルの民をエジプトから救い出したモーセの後継者に選ばれました。
モーセの死後、民を率いて、ヨルダン川を渡り、カナンの地を征服し、イスラエルの民は約束の地を得たのです。
ヨシュアは、年を重ね、共に歩んで来た民を集め、彼らに遺言を残します。
それがヨシュア記の中に記され、聖書に収められました。
イスラエルの民は、ヨシュアが死んだ後にも、ヨシュアとイスラエルの民の姿、その言葉を繰り返し読みながら、信仰の継承がなされてきたのです。
23:6 だから、右にも左にもそれることなく、モーセの教えの書に書かれていることをことごとく忠実に守りなさい。
これは、ヨシュア自身、若き日に聞いた、主の言葉です。
1:7 ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。
1:8 この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。
ヨシュアは、主の教えを守り、自ら実践し、民に教え、主を固く信頼し、歩んで来たのです。
ヨシュアは、主の言葉に従って、御言葉を昼も夜も口ずさみました。
これは、私たちの教会が大切にしてきたQT、ディボーションです。
新しい年度も、今日までしてきたように、右にも左にもそれないように、御言葉によって軌道修正しながら、主を固く信頼し、歩んでいきたいと思います。
23:7 あなたたちのうちに今なお残っているこれらの国民と交わり、その神々の名を唱えたり、誓ったりしてはならない。それらにひれ伏し拝んではならない。
イスラエルの歴史を見ると、神を信じながらも、他の神々をも拝み、偶像礼拝に走っていく姿が描かれています。
なぜ、彼らは神を信じながらも、偶像の神々を拝むようになったのでしょうか。
なぜ、彼らは、神だけに頼ることができなかったのでしょうか。
彼らは、主以外のものにも、依り頼んでいたのです。
カナンの地にあり、人々が拝んでいる神々も、まるで、もう一つ、保険をかけておこうというような気持ちで、拝み始めたのではないかと思うのです。
ヨシュアは「ただあなたたちの神、主を固く信頼せよ」と言いましたが、神だけではなく、他の神々にも頼るようになったのです。
それは、偶像だけではありません。
人の力、軍事力にも頼るようになりました。
彼らは、時にはエジプトに頼り、時にはアッシリアに頼ったのです。
その結果、彼らの信仰はズレていきました。
挙げ句の果てには、神殿の中に、偶像を持ち込み、神殿を汚しました。
実は、この後、ヨシュアが世を去り、ヨシュアと共に歩んだ人たちがいなくなると、まさに彼らの信仰はズレ始め、主の目に悪を行うようになるのです。
それが士師記の時代でした。
イスラエルの歴史を見ると、何度も、何度も、枯れた木のような状態になりながらも、再び、主に立ち帰り、回復し、立ち直っていきます。
それは、彼らの中に、神の言葉、聖書があったからです。
ヨシュア記もそうですが、旧約聖書には、神様が選び、神と共に歩むイスラエルの姿と、神がなされたこと、数々の御業が記録されています。
後の日に、それらの記録を見て、神の言葉を思い出し、回復していったのです。
神の言葉、聖書には、私たちの人生を回復させ、救いに至らせる力があります。
イエス様の弟子、ヨハネは、三年間、主と共に歩み、主がなされたことを福音書に書き記し、その書物を書いた目的を、こう述べています。
20:30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
20:31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
イエスは神の子メシア(救い主)です。
誰でもイエスを救い主と信じるならば、永遠の命が与えられる。
これがキリストの福音なのです。
この福音を聞いて、主を固く信頼し、右にも左にもそれずに歩むならば、この地において、良い花を咲かせ、実を結び、それが確かな証となるのです。
今から22年前、開拓伝道を始めた時に、私はいろんな方から聞かれました。
「先生のビジョン、この教会のビジョンは何ですか」と。
その時、私の口から出たのは、「ホッとする教会」でした。
しかし、スタートして、直面したのは、ホッとする教会を願いつつも、花を咲かせ、実を結ぶことを願いながらも、冬の時代、荒れ野を彷徨いました。
ヨシュア記を黙想すると、私たちの教会の姿を見るような思いがします。
また、創世記のヤコブ物語を見ても同じです。
しかし、荒れ野の中にも、神が共にいました。
私にとって、この教会にとって、荒れ野の時は、成熟に向かために必要なプロセスでした。
荒れ野を過ごす中で、私はQTを生活の基本とし、神の恵みが存在の基盤であることを、身を持って体験し、七年目に安息と解放の年が訪れ、回復することができたのです。
週報や役員議事報告にもあるように、来週の礼拝に、信徒の友の編集部の方とカメラマンの方が来られ、教会の取材に来られることになりました。
7月号の「ここに教会がある」、教会を紹介するコーナーに掲載されます。
私は、神様の御業、主がなされたことを記録し、信仰の証を世に残すことは、福音を伝えることと同じぐらい大切なことだと思っています。
なぜなら、福音、神の言葉は、教会の証と共に、宣べ伝えられてきたからです。
主がしてくださったことを、記録に残すことは、信仰の種を子孫に残すようなものです。
毎年、発行している交友誌もその一つです。
来週、総会資料を配布しますが、総会資料もまた、教会の歩みの記録であり、神がこの教会の中に共に働いたことの証であり、信仰の種なのです。
実は、信徒の友は、来年3月に休刊となるとのことです。
しかし、この雑誌は、一般の雑誌とは異なり、そこには信仰者の証が記されていて、後から読んでも、教えられること、気づきを与えてくれます。
それは、信仰の種として、神の御業が記録されているからです。
ですから、今回、休刊される前に、私たちの教会の歩みが掲載され、記録に残し、主に栄光を帰することができることを、とても喜び、感謝しています。
信仰の種を残すためには、花を咲かせ、実を結ぶ必要があります。
新しい年度も、今日までしてきたように、礼拝を人生の中心として、恵みを存在の基盤とし、QTを生活の基本としながら、主を固く信頼し、良い花を咲かせ、良い実を結び、信仰の種を残しながら、福音を伝えていきましょう。
お祈りいたします。

